京成関谷駅と牛田駅から線路沿いに東に進みます。東側には荒川が横たわっていますが、その手前で東武伊勢崎線は南に急カーブして高架上の京成本線をくぐります。京成はそのまま荒川を渡って青砥方面に直進していきます。
・・・それはわかっていたのですが、このあたりは住宅密集地で線路沿いに道が無くちょっと迷い気味。公園のようなところに歩道橋らしき階段があったので、チャリで登ってみると・・・そこは「川の手通り」が荒川を渡る「堀切橋」の西詰でした。京成本線は堀切橋と並走して川を渡っています。
そのあたりからふと南側を見下ろすと駅が見えました。
東武伊勢崎線の堀切駅です。ここから見えるとは全くの予想外でした^^;
この左手(東側)すぐ近くに荒川が流れています。駅は伊勢崎線が川の手前で急カーブする途中にあったのでした。
それでは駅に向かおうと思います。
まず西詰からそばの住宅地に降りると、すぐ目の前にホームがあるのですが、出入口が見つからず。
東側に出入口は無いと思い、西詰に上がってから来た道を戻って線路の西側へ・・・。川の手通りから墨堤通りを左折、その先で住宅密集地の細道に再度突入します。
駅舎は道が線路や堤防に突き当たる行き止まりにありました。かなり大回りしました;;
堀切駅は東京都足立区千住曙町にある東武鉄道伊勢崎線の駅。荒川沿いにある小駅です。乗降数は東京23区内にある伊勢崎線の駅では最も少ないそうですが、立地を考えてもわかる気がします。
駅名にもなっている「堀切」という地名は、実は荒川の対岸の葛飾区側にあります。
このあたりは元々は綾瀬川しかなかったそうです。荒川のうち赤羽の岩淵水門から中川河口までの区間は、水害対策のために開削された「荒川放水路」という人口河川だったんですね~。掘削工事に着手したのが1913(大正2)年、放流開始が1924(大正13)年、最終的に工完したのが1930(昭和5)年。かなりの難工事だったそうです。
「堀切」とは元々地続きだったものが放水路で分断されたということらしいです。・・・知りませんでした。
駅の開業は1902(明治35)年4月のことで、当時はもうちょっと東側の旧線上にあったそうです。つまりは元々は「堀切」に駅はあったのかもしれません。
そのすぐ後、1905(明治38)年7月に休止、1908(明治41)年4月に駅は一旦廃止されています。荒川放水路開削の影響で線路付け替えを行うためだったのかもしれません。1924(大正13)年10月には現在の新ルート上に移転され、営業再開されています。
駅構造は相対式ホーム2面2線で西から1~2番。ホーム間の連絡は無く、駅の外にある歩行者用の跨線橋を利用するように案内されていました。ということなので、改札口は東西に2か所あります。東にもあったのはここにきて初めて知りました・・・。
こちらは上画像↑の西口駅舎にある改札口。1番ホームの南端にあります。
西口駅前の様子。西口は左端にあるトイレの奥にあります。
前述したように線路や堤防に阻まれた住宅密集地のどん詰まりにあります。とってもわかりにくい場所です。
右に見えるのが歩道橋で、2番のりばはこの橋を渡っていく必要があります。ブログでお世話になっている佐倉さんも紹介されていたと思いましたが、この手前にはラーメン屋さんが1軒。前々から気になっていたのですが、ちょっと前に閉業されたようです。非常に残念><
歩道橋の階段途中から駅の様子。住宅と線路の狭いエリアにへばりついたような駅舎がいい感じ♪
歩道橋東寄りから。見事なカーブ♪
歩道橋を渡って東側にでると荒川の堤防上に道があります。
東口は堤防から階段で降りたところにありました。
こちらもホームの南寄りにへばりついた感じの小さな建屋です。ちなみに堤防の先は広々としたグラウンドになっていて少年野球チームが練習していました。グラウンドに行くには便利な出入口だと思います。
2番線から浅草行きが出発です。車番は"11663"。
昼間帯は浅草~北千住の区間運転の普通列車しか停車しないそうです。
振り返って浅草方面。高架は首都高6号向島線。その真下に旧綾瀬川が流れ、荒川との接点に「隅田水門」があります。旧綾瀬川は右奥で隅田川と合流。隅田水門は荒川増水時の隅田川への流入を制御するためのものらしいです。
リバティもやってきました。もちろんこの駅は通過します。
さて次は線路に沿って南に進みます。旧綾瀬川を渡るために一旦墨堤通りまで回り込みます・・・。
